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父が他界した

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Posted in 個人, 家族

先週の木曜日(7月21日)に父が他界した。68歳だった。

小さい頃に祖母を亡くし、結婚する前に祖父を亡くした経験はある。いつかくる事だと思っていたが、肉親の死がこんなに辛くて悲しい事だとは思わなかった。

一回目の連絡

父の病気を初めて知ったのは、6月11日。この日はちょうど、上の子の授業参観で学校に行っていた。下の子を連れ、廊下から上の子の授業の様子を眺めていたら、携帯が鳴った。相手は、3番目の兄。仲が悪いわけではないけれど、電話をかけてくるなんて久しぶりで、何の様かと思ったくらい。

電話の内容は、父の病気の事。今年の2月から症状が出ていて、血痰が出てくる等の症状からおそらく肺癌だろうとの事。父の住んでいる兵庫県で検査するのは何かと不便だから、6月20日から兄の勤めている病院に入院し検査するとの事だった。検査日程がちょうどアメリカ出張と被っていたので、検査の結果が出たらメールで連絡して欲しいと伝えておいた。この時はまだこんなに大事になるとは思っていなかった。

二回目の連絡

アメリカ出張中の6月23日、検査が終わり、兄からメールが届いた。結論から言うと、遠隔転移(脳転移と骨転移)が見られる為、病期はステージ4。余命は長くても半年。肺炎を制御する為に、6月30日に左肺を全摘出するから帰国したら見舞いにきてやって欲しいとの事。

肺癌がどんなものかは、一回目の連絡を受けた後に調べていたので予備知識はあった。それに加え、父は医者なので自分の体の事は良くわかっているはずという思い込みもあったんだろう。それだけに、余命半年の宣告にはびっくりした。

一回目のお見舞い

出張から帰国したのが6月30日。少々時差ぼけはあったが、父の容態が心配になり、翌日、新幹線で兄の勤めている病院のある三重まで向かった。家族で行きたかったが、下の子が風邪を引いていて父に移ったら大変なので、上の子と二人で行った。上の子には、おじいちゃんが病気で入院して手術した、としか伝えていなかった。

病室には体から管が出てベッドへ横たわる父の姿が。前回見たのは、2ヶ月前のゴールデンウィークだったが、その時の父はいつもと変わらず元気で、普通に歩いてたし普通にご飯も食べてた。左の肺を全摘出したせいもあるのか、言葉はもごもごとはっきりとせず、以前の様な元気な父ではなかったのは確か。

残り半年をどうやって過ごせばいいのかわからなかったが、とりあえず孫の姿を見て欲しいという思いから、駅前のauショップでPHOTO-Uを契約し、枕元へ置いて、東京へ戻る事にした。

それから数日。東京へ戻ってきても、父の事はいつも頭の中にあった。様子を聞こうと携帯に電話したら、海の日の三連休前に、退院して二泊三日で鈴鹿の病院へ放射線治療に行くとの事だった。その後は、三重に住む兄の家に泊まり、兄の病院へ通院して化学療法をする事になっているとの事だった。少しでも、状態が良くなればと思っていたが、後で聞くとかなり大変だったらしい。

三回目の連絡

7月15日、兄からメールが来た。骨に転移した腫瘍が大きくなり痛みがひどく、水も飲めない食事も取れないので、再入院する事になった。翌週から化学療法をするのだが、今のままだとかなり大変らしく、このままだと秋までもたないとの事だった。一度見に来てあげて欲しいとの事なので、今度は家族全員でお見舞いに行く事にした。

二回目のお見舞い

朝から来るまで三重まで向かう。少しでも時間が惜しいのに、嫁さんの準備に時間がかかり予定時間より二時間遅れて東京を出発。さらに運の悪い事に事故渋滞に巻き込まれ、結局三重に着いたのは夕方の6時前。既に、兄二人は病室にいて、父のそばにいた。この時の父はまだしゃべる事も出来、体調が悪いんだろうが、軽い冗談も言えていた。

兄弟全員が揃うのは、3番目の兄の結婚式以来と言う事もあり、その日は、みんなで食事をする事にした。そこで色々話しをしたのだが、内容はあまり覚えていない。母からは「おそらく、元気な姿で会えるのは明日が最後だから、お別れの言葉を伝える様に」と言われたので、翌日、家族全員で写真を取り、帰る前に父と話をした。

本当は元気づけなきゃいけなかったはずが、父の手を握ったら涙が出てきて、謝ってしまった。父も涙し、うんうんとただうなづくだけだった。結局、言えたのか言えなかったのかわからないまま、病院を後にし、その日は東京へ戻ってきた。

四回目の連絡

7月20日、兄からメールが来た。残った右肺も肺炎を起こしており、呼吸状態があまり良くなく、予定していた放射線治療や化学療法も難しくなった為、今後は積極的に痛みを抑え、呼吸困難がひどくなる様なら、麻薬による呼吸困難緩和を図るとの事。麻薬で呼吸困難をとる様になると長くなく、最悪この数日で亡くなる事もあるとの事。

会社には事情を説明し、昼から休みをもらって一度家に帰り、準備をして三重に行く事にした。

三回目のお見舞い

どうなるかわからなかったので、嫁さんと子供達は家に残して、三重に向かった。

到着したのは、夜の9時過ぎ。病室に入ると、呼吸が苦しくておき上がって必死で呼吸する父の姿があった。麻薬のせいか、意識は朦朧として、自分が来たのかどうかわかっていなかったのかも知れない。父の手を握り、背中を擦って、少しでも呼吸がしやすい様に、母と一番上の兄と三人で看病をしたのを覚えている。多分、来た時には、少し意識があったと思うが、それ以上に父の苦しそうな姿が忘れられない。

2番目の兄が到着したのが、1時間後の22時頃。その時には、薬が効いて少し楽になった代わりに意識はなく、多分兄が到着した事もわかっていなかったと思う。結局この日は、良いとは言えないが状態が安定してきたので、母と3番目の兄が病院に残り、残りは駅前のホテルで休む事にした。

翌日、朝、病院に行ってみると、苦しくて横になっていられなかった父も、薬が効いてたのか横になっていた。呼吸は自発的にしているし、血中の酸素飽和度もそれなりに安定していた。

昼前には、母方の叔父と、兄嫁の両親、宮崎での遊び仲間がお見舞いに来てくれた。しばらくそばに居てくれたが、時間の都合もあり、夕方にはそれぞれ病院を後にし、残ったのは母と兄弟だけだった。

その頃からか、血中の酸素飽和度が少しずつ低下してきた。90あったのが80に、80あったのが70に、70あったのが60になり、しばらくすると計れなくなり、ナースステーションからテレビでよく見る(波形と心拍数が表示される)あの機械が病室に運ばれてきた。

手を握ると、指先は冷たくなってきており、血液が指先まで来ていないのがわかった。その数分後、あの機械はアラームを発して、17時05分に父は息を引き取った。

本当にあっという間だった。兄から初めて連絡を受けてから1ヶ月とちょっとで逝ってしまった。残された時間で親孝行出来るかなと思ったりもしたけど、結局何も出来ないまま逝ってしまった。

それからは、各自家族を呼び寄せる電話をし、兄弟で分担して葬儀場・ホテルの手配をする等、バタバタとしていた。結局、葬儀は三重で行う事にした。

葬儀は生前の父の希望通り、葬儀は親しい友達にだけ知らせ、家族だけで見送る事にした。いわゆる、家族葬って呼ばれるものだ。ただ、どこから聞きつけたのか、色んなところから花や弔電が届いた。数名と思われていた弔問者も、予想を超えた人数が来てくれた。従兄弟にも久しぶりに会った。

葬儀の夜、家族でご飯を行った帰りに、ラーメン食べて帰ると言って、ホテルの目の前にある立ち飲み屋へ一人で行った。普段飲まないお酒を飲みながら、ラーメンをすすってると色んな事を思い出して、知らない内に涙がこぼれた。

翌日、兄弟は各々の住む土地へと帰って行った。次、家族と会うのは49日。その頃には、きっと笑って話せる様になっていると思う。

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